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三味線の歴史 三味線のいろは
三味線の伝来
 中国の三絃(さんしん)に由来する。永楽年間(1558‐70)に琉球の蛇皮線が泉州(大阪)の堺に輸入され、琵琶法師(中小路説・石村検校説などがある)によって改良されたという。伝来後急速に普及し、さらに改良を施され、日本の近世を代表する楽器になり、現在に至る。 「しゃみせん」という呼び名は、中国の「三絃san1声xian2声」がなまったものと考えられる。またそのまま音読みして「さんげん」と呼ぶことも一般化している。

構造上の変化
 構えたときに上方にくる低音弦(一の弦)は上駒(かみごま:棹の上方にある金属製の、糸を棹から浮かせる部分)から外してあり、棹の本体にわざと触れやすいように工夫がされている。この工夫は「サワリ」と呼ばれて、中国・琉球の三弦には見られない。上駒と平行に溝を作ることで、わずかな起伏を設け、一の糸が振動するときにその山に触り、微妙に異なる音高が混じり合う効果をあげる。この効果が生まれることを「サワリがつく」といい、演奏技巧上重要である。

邦楽器 琵琶の影響
 撥の使用は琵琶に見られる。中国の二胡(胡弓)は弓で弾く。琉球の三弦は撥を使わない。琵琶の撥と違う点は、素材が象牙・鼈甲(べっこう)を用いる点である。(ただし小唄は爪弾き) 犬・猫の皮を張らずに、鹿児島では「ごったん」という杉製の板張り三味線が近年まで愛好されていたことは、薩摩琵琶の影響ではないかと、私は考えている。糸巻きの部分から棹が曲がっているが、その部分を海老尾という。琵琶もその部分を海老尾という。この点も、やはり琵琶の影響と私は見ている。
三味線音楽の発展と変化
 三味線は伝来当初には、筝・一節切(ひとよぎり)尺八などの楽器とともに流行歌曲の演奏に用いられたが、17世紀中ごろからは盲人音楽家によって、三味線組歌が始められた。 後に筝・胡弓(または尺八)を加えた三曲合奏が生まれ、この伝統は「地歌」へとなる。
 浄瑠璃は、琵琶を用いて説話を語る音曲であったが、17世紀初め、三味線を伴奏楽器として採用して以来、急速に発達した。人形芝居では、初め説教節・金平節・播磨節などの浄瑠璃が用いられたが、元禄期(1688〜1704)竹本義太夫が浄瑠璃諸派を集大成し「義太夫節」を確立した。義太夫節は人形浄瑠璃を代表する種目として、現在では文楽の中心的音楽になっている。義太夫節には、撥音の強弱を調節する表現技法があるのは、琵琶の影響で、撥をたたく音も演奏形態にあるためだろう。ところが、地歌は撥音を避けて、純粋の弦音だけを求める。この点で両者は対照的である。
 歌舞伎も一中節・大薩摩節・河東節など、18世紀初頭に展開した浄瑠璃諸種目を吸収した。中でも一中節から生まれた豊後節は大流行したが、風紀を乱すことを理由に禁止され分派し、「常磐津節」や「清元節」が歌舞伎音楽として残り、「新内節」が座敷浄瑠璃として確立した。
 「長唄」は歌舞伎の劇場付音楽家たちによって生まれたが、伴奏や効果音としての下座音楽以外に、座敷音楽として技巧的にも高められた種目として現在にいたっている。
 江戸末期には、三味線伴奏による小歌曲が流行し、「端唄」・「うた沢」と呼ばれるようになった。明治にはやはり同種の小曲が流行り、「小唄」として現在に至っている。
 明治期には他に、地方の民謡を三味線の伴奏で歌う「俗謡」「浪曲」「女義太夫」などが流行り、「一中節」「宮薗節」「荻江節」「河東節」なども再興され、三味線音楽の全盛期となった。
三味線の種類
棹の幅の太さによって太棹・中棹・細棹の三種類に分ける。
・太棹:津軽三味線・義太夫節・浪曲(浪花節)
・中棹:常磐津・清元・新内節・地歌
・細棹:長唄・荻江・小唄

歌物(うたいもの)と語り物(かたりもの)の分類
歌物:地歌・長唄・荻江節・端唄などの小歌曲類または民謡など
語り物:義太夫・一中節・浪曲などの浄瑠璃

 この分類が普及していることから三味線は歌や語りの伴奏楽器として捉えられがちであるが、曲の進行に関しては歌い手や語り手よりも三味線弾きの方が主導権をもつ場合が多い。一人で弾き語り(歌い)をする場合でも、その学習過程では三味線の旋律がまず規範となる。例えば、日本舞踊では踊り手も口三味線でリズムを取るようだ。
 長唄の合方(あいかた)や地歌の手事(てごと)は、三味線そのものの技巧を聴かせるために一曲中に挿入される器楽演奏部分である。
 合方は、特定の雰囲気を象徴する音型を他ジャンルの音楽から引用したり、自然音を模倣的に表現するなど、表現様式が洗練された。
 手事は、尺八や筝との間の「掛け合い」など声楽から独立した器楽合奏部分として発達した。
また、歌や語りの合間に置かれる短い独奏部は合いの手と呼ばれ、掛け声などを多用しながら、曲を推し進める役割を持ち、あらゆる種目に見られる。
津軽三味線の誕生
 津軽民謡に用いられる独特の三味線。棹は太棹の中でも一番太く、重いため、立てるようにして弾く。厚手の重い撥を用い力いっぱいたたいて演奏する。演奏方法はスクイ・ハジキを多用する特徴がある。梅田豊月・白川軍八郎・木田林松栄・高橋竹山ら名人によって派手な曲弾きが加わり、独奏楽器として確立した。

津軽じょんがら節
 津軽地方の坊様(座頭)とかホイド(本来は祝詞人/ほぎびとの意が乞食の代名詞になる)と呼ばれる遊芸人たちが門付けを中心に歌ってきたもので、その源流は天明(1782頃)新潟十日市町市下組新保で生まれた「新保広大寺」である。それが越後「ごぜ」などの手によって長編の「口説き節」に仕立てられると、諸国の遊芸人の間に広まり、坊様たちの持ち唄になっていった。
 ところが、「ごぜ」のスクイ撥多様の三味線技法が津軽で異常に発達しはじめ、加えて門付けには誰にもわかる芸ということから、太棹で丈夫な犬皮、一の糸を太く、撥は厚手でたたきまくる大きく激しい技法が発達した。
 明治に梅田豊月という名人が出現し、今日の津軽三味線が確立された。ちょうど同じころ浪花節の台頭で、津軽じょんがら節は津軽浪花節として舞台芸に発展していった。「じょんがら節」という曲名は、関西の「チョンガレ節」(祭文の大衆化したもの)と同種の語り物の意味らしい。現在大会などで弾かれる独奏曲は白川軍八郎が編み出したものらしい。

津軽あいや節
 九州の「ハイヤ節」(「平戸田助ハイヤ節(長崎)」「牛深ハイヤ節(熊本)」など)が北前舟で津軽に幕末伝えられた。日本海を渡ってきたあいや(ハイヤ)節が十三湊から岩木川を遡り定着していったようだ。(「南部あいや節」なども生まれた。)

津軽小原節
 津軽小原節は、津軽へ渡ってきた「あいや節」が津軽海峡を通り抜けて太平洋を南下し、塩釜あたりで「塩釜甚句」となり、これが逆北上して津軽に入って「津軽塩釜甚句」となった。短詞型の「塩釜甚句」を長詞型の「塩釜小原」に、これが津軽化されて「津軽小原節」となった。
 なお、「鹿児島小原節」は、詞を見ると、西郷どんが登場している点からすれば、「津軽小原節」の後に出来たとみるべきか。それとも偶然の一致か。

津軽よされ節
 「津軽よされ節」以外にも「北海よされ節」「南部よされ大漁節」「黒石よされ節」など「よされ節」は様々に変化した。

現在の形態が津軽の芸人に広まった理由
(1)地理的要因
中央の公家社会や江戸の武家社会の影響が少なく、日本人古来の楽天的・情熱的な生き方が残った。
東の南部地方に対する西の津軽という根強い対抗心があり、他と差をつけることに価値を見出す気風から、お互い切磋琢磨した。
(2) 演奏条件
聴衆が主として北海道のヤン衆(出稼ぎの漁師)のため野外・飯場・掛小屋などの悪条件下の演奏が多く、さらに感覚より本能に訴えかける必要から、強く激しい芸が求められるようになった。
(3) 浪花節などの影響
明治後期から昭和初期の浪花節全盛時代に津軽地方で「じょんがら」「よされ」「おはら(小原)」のいわゆる「津軽三つ物」が浪花節の代用として流行した結果、興や舞台演出にショーとしての要素が加わった。そのためか、このころに若干、曲節が変わったらしい。

 津軽三味線の名称が一般的になったのは、1956年(昭和31年)ごろの三橋美智也と木田林松栄の曲弾きショーを初めとする。まだまだ「津軽三味線」としての歴史は浅い。しかしその分、今後の発展に期待できる。

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